「 日本人 」
=
眼鏡を掛け、
出っ歯で背が低く、
首からカメラを提げている
(戦後、日本人団体旅行者の与える印象が強かったため)。
いつも笑顔。
イエスとノーが曖昧。
個人主義的な西洋人に対して集団主義的。
恥の文化。
捕虜になって辱めを受けるよりも潔い死を選び(戦陣訓)、「ハラキリ」や「バンザイ突撃」「カミカゼ」に至る。
英語の発音が下手で独特の文法の英文を作る。手先が器用で物作りが得意。
欧米の一部では、外国人嫌い、
歯並びが悪い、
などのイメージがある。
発展途上国では、
きれい好きで道徳意識が高く、
マナーがよいというイメージもある。
みんながみんな
そうでは無いでしょう?
コレが「 ステレオタイプ 」です。
◉ ステレオタイプ
(英: Stereotype、仏:Stéréotype)とは、
多くの人に浸透している先入観、思い込み、認識、固定観念、レッテル、偏見、差別などの類型化された観念を指す用語である。
( 以上、Wikipediaより)
人ってみんな、
こんな思いを持ってますよね?
それって
その人が悪いわけではないでしょう?
周りがみんなそう思っている。
問題は
それが「 正しい 」かどうかです。
(写真と内容は関係ありません。東京ディズニーシーより)
アメリカのゴードン・オルポートが書いた、
「 偏見の心理 」
から
(1) 偏見とは何か
偏見の問題を理解する上では,偏見とは何かをまず把握する必要がある。
オルポートは偏見がいかなるものかについて丁寧な解説を行った上で,人種や民族に対する偏見(まとめて民族的偏見と呼んでいる)を次のように定義している。
民族的偏見とは、
誤った、
柔軟性のない
一般化に基づいた反感である。
それは意識されたり、
表明されたりするかもしれない。
それはまた、
集団全体に向けられるか、
さもなくば、
その集団のメンバーであるという理由で、
ある個人に向けられるかもしれない。
(上巻, p.8)
完義の柱となる第1文には、
一般化、
誤り、
柔軟性、
反感
という4つのキー概念があり,それぞれは次の意味で使われている。
a)一般化:
空模様から「晴れ」だと思う。
ワンワンという声が聞こえて「イヌ」がいるとわかる。
自分とは異なる色の肌や目を持つ人を見て「外国人」かもしれないと考える。
といったように、人が思考する際にはカテゴリが頻繁に利用される。
この定義にある
「一般化」は「カテゴリ化(categorization)」
と同義であり、
あるカテゴリに含まれる似たものどうしを他のものから区別する認知過程を意味している。
人はカテゴリ化をすることで、
それぞれのカテゴリを特徴づける情報を瞬時に連想することができ、
その情報に基づいて他者や状況を推測し、
適応的な行動を選択することができる。
カテゴリ化それ自体は、
人が外界を意味づけ理解するための不可欠かつ正常な過程であるが、
以下に述べる他の要素が加わるとこれが偏見につながる。
b)誤り:
カテゴリの特徴をもとにしてなされる推測は、正しいこともあれば、誤っていることもある。そのうち偏見となるのは誤った推測であり、
正しい推測がなされているのであれば、
それは偏見にはならない。
ただし、
ある集団やそのメンバーを正しく推測するにはかなりの知識が必要であり、
実際のところ、推測の正誤は暖味なままである。
この暖味な状態でも人は他者を推測しようとするため、
推測の誤りはどこかで生じる。
ただし,、オルポートによると、
誤った推測のすべてが偏見ではない。
c)朱軟性:
誤った推測をしても、
その推測に矛盾する情報を得たときに自分の推測を柔軟に修正できるとしたら,.
誤った推測は単なる思い違いであり、
偏見ではない。
自分の推測に矛盾する情報を得たにもかかわらず、修正することに感情的な抵抗を感じ.
誤った推測に固執するとしたら、
その推測は偏見である。
修正への抵抗を生み出すのは集団に向けられた感情である。
d)反感:
集団に対して人が抱く感情には好意的なものと非好意的なものがある。
この事実をオルポートも認めているが(上巻, p.6)、1950年代当時に民族の間で見られる感情の大部分が非好意的なものであること、
また、好意的な偏見から生じる問題はほとんどないことを理由として、
彼は民族的偏見を非好意的な偏見に限定している。
好意的な偏見から生じる問題も現在では重要だとされるが(Glick &Fiske. 1996: Fiske, Cuddy, Glick, & Xu, 2002)、
ここで重要な点は、
オルポートの定義において偏見の認知的な安索と感情的な要素が明確に区別され、
両者の相互作用についても言及されていることである。
この区別をすることで、
偏見の認知的な要素は誰にでもある正常で一般的な過程であり、
それが感情的な要素と連動してさまざまな問題が生じることが見えてくる。
それらの問題のうち優先的に解決されるべきものは、
特定の集団やそのメンバーに対する敵意的行為である。
(社会心理学 森津太子 著 参照)
昔のように、
民族の虐待や人種差別といった
あからさまな偏見は
民主化の現代では減少はしてます。
しかし、
いじめなどの表面的には見えにくい偏見は
逆に増えているように思われます。
見た目も中身も全く同じ人って
存在しないのです。
ちょっと違うだけで
なんで嫌うのでしょうかね?