bimota
ビモータ(Bimota S.p.a.)はイタリアのオートバイ製造販売会社である。
昔は
街中でたまーに見ると
「お!ビモータじゃん!」
と羨望の眼差し!
750ccが70万くらいで、
ゴールドウィングが150万くらいだった時、
ビモータは300万って言われてました。
タンブリーニ時代
- 空調設備からオートバイ製造へ
ヴァレリオ・ビアンキ(Valerio Bianchi)、
ジュゼッペ・モーリ(Giuseppe Morri)、
マッシモ・タンブリーニ(Massimo Tamburini)の3人によって、
当初は空調設備の会社として
1966年にリミニにて設立された。
会社名の由来は、
3人の姓の綴りから最初の2文字ずつ
を組み合わせたもの(BI-MO-TA)であった。
創立者の一人であり根っからのオートバイマニアであったタンブリーニの趣味がきっかけで、会社の事業としてもオートバイに関わるようになった。
1972年に趣味のオートバイレースで大破した自らのホンダ・ドリームCB750FOURをフレームから作り直した。
これが後のHB1の原型であり、ビモータの第1号車でもあった。
レースからそのまま持って来た?
みたいなデザインが素晴らしい!
カッコ良かったです。
この車両が評判になり、1973年にビモータ・メカニカとしてフレーム・ビルダーの業務を本業とは別に開始した。
なお、この頃には創業者の1人であったビアンキは既に会社を去っていた。
最初期の業務は主に日本車向けのスペシャルパーツの製造販売やレース用フレームの製作供給であり、パトンやモルビデリ、ハーレーダビッドソン(アエルマッキ)などのレースチームがビモータ製フレームを使った。ビモータのフレームを採用したレースチームが活躍し、1980年にはヤマハ市販レーサーTZ350のエンジンを搭載したYB3が世界GPの350ccクラスで優勝したことでその名を広め、本格的に市販車を発売する頃には空調設備の業務をやめて完全にオートバイ製造会社へ転向した。
「空調設備」から「オートバイ」って、
繋がりってわからないものですな?
マルティーニ時代
- 黄金期編集
1983年にタンブリーニが会社を去ると、ドゥカティから移籍してきたフェデリコ・マルティーニ(Federico Martini)がチーフエンジニアとなった。
同年のミラノショーではハブセンター・ステアリングなどを採用した革新的な試作車テージを出品するが、これが市販間近との誤解を生んで既存車種の買い控えが起こり、結果として1984年にビモータはイタリア政府の管理下に置かれるほどの経営危機を迎えた。
だが1985年にドゥカティからのエンジン供給を受け開発されたDB1を発売すると高い評価を受け、経営危機を脱するのに充分な収益を上げることになった。
このエンジンがまったく見えないフルカウルは
HONDA CBRなんかにも
かなり影響を与えてました。
1986年末にヤマハとのエンジン供給契約がまとまると、1987年には従来のビモータにはなかったアルミニウム合金製ツインスパーフレームにFZ750のエンジンを搭載した
YB4RでTT-F1世界選手権に初参戦し、バージニオ・フェラーリが3勝してタイトルを獲得した。さらに、この車両を基にした公道用市販車YB4E.I.を1988年に発売した。折からのレーサーレプリカブームやプラザ合意以後の円高政策も追い風となり、YB4やDB1の日本での販売台数が他国に比べて飛躍的に伸びる結果となった。
マルコーニ時代
- 倒産編集
1989年にマルティーニはジレラに移籍し、ピエルルイジ・マルコーニ(Pierluigi Marconi)がチーフエンジニアとなった。
1990年には、マルコーニが学生時代から関わっていたテージの公道用市販車版であるテージ1Dをコローニェショーで発表して技術的に注目され、マルティーニ時代からのDBシリーズやYBシリーズを着実に育てあげるなど、精力的に活動した。
しかし一方で、1993年には創業者で最後まで残っていたモーリが去り、テージ1Dが商業的な成功を収めないまま1994年に生産終了すると、その頃を転機に、ビモータの経営方針に変化が訪れた。
モーリが去った後の新経営陣は、高品質ながら少数生産というそれまでの方針を改め、商業的成功を目標に生産数増加を目指し、それまでのビモータとは違った路線の車種も充実させるようになった。従来通りの路線では、ヤマハとのエンジン供給契約が切れた後に、スズキとの協力関係のもとでSB6を発売し、単一車種としてはビモータ最多の販売台数を記録し、工場を拡張するほど販売が好調であった。
新たな路線としては、当時人気が出始めた大型ネイキッドとしてDB3マントラを発売し、以前は参入を否定していたシングルスポーツのジャンルにもBB1スーパーモノを投入した。だがSB6とは違い、DB3とBB1は商業的には成功せずに終わった。
マントラ、、、。
わたしは好きだったんですけどねー。
他には絶対ないあのデザインが!
また、テージ1Dなき後の技術と独自性を象徴するものとして、ビモータは1996年コローニェショーにて500Vデュエを発表し、翌1997年に発売した。ビモータ初の自社開発エンジンとなる500cc2ストロークV型2気筒を搭載して「全ビモータ製」を謳った500Vデュエは予約が殺到するほどの前評判だった。
しかし、実際に発売されるとシリンダー内直噴インジェクションの技術的問題が表面化して商業的な失敗を招き、ビモータは大きな負債を抱えた。この失敗で1998年には工場はほとんど稼動しない状態に陥り、この時期にマルコーニを含めた多くのスタッフがビモータを去った。
1999年に、ラベルダを復活させた実績を持つフランチェスコ・トニョン(Francesco Tognon)のもとで生産を再開し、マルコーニが残したSB8Rの販売で復活を目指した。2000年には、リーバイスがスポンサーとなって、SB8Rのホモロゲーション車種であるSB8Kで世界スーパーバイク選手権に参戦し、アンソニー・ゴバートのライディングにより出場2戦目で早くも優勝しその技術力の高さを見せつけたが、リーバイスがシーズン途中で撤退してしまいチームは空中分解した。市販車のSB8Rも商業的な成功には繋がらず、会社は倒産に至った。
ロビアーノ時代
- 復活編集
2003年に、イタリアの資産家ロベルト・コミーニ(Roberto Comini)が以前の本社や工場を丸ごと買い取り、企業活動を再開した。
マルコーニの下で働き、Vデュエのデザインなども担当したセルジオ・ロビアーノ(Sergio Robbiano)がチーフデザイナーとなった。
2004年には既存のSB8の部品を基に新たなSB8Kの派生版を生産開始し、2005年にはロビアーノのデザインによるDB5と、ビモータ初のOEM車となるテージ2Dを発売した。
見るからに
「何者?」って感じがする
凄いデザインと装備でした。
( ̄▽ ̄)
DB5にはクロモリ鋼管製トラス構造に、アルミニウム合金を削り出したピボットプレートなどと組み合わせた複合型フレームを採用した。従来のビモータの印象を受け継ぎながら新たな意匠をつくりだしている。また、マルコーニ時代後半のように大量生産を目指さず、少数生産で高品質に力を入れるという初期のビモータに通じたものづくりも、新生ビモータの特徴となっている。
2006年にはDB5をネイキッド化したDB6デリリオと、OEMでなく自社開発となる
テージ3Dを発表した。
2008年にはテージ1D以来のドゥカティ製水冷エンジンを搭載したDB7を発売した。
初のオフロードモデルであるDBX1100
(408万円)
トップが交代しながら、
創始者がいなくなりながら、
倒産しながら、
今も生き残っている?
ビモータって
何なんでしょうね?
( ̄▽ ̄)