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パーツメーカー⑤ OVER racing

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また、

ちょっと一休み。

この手のブログも作るのも

結構たいへんなんですけどね?

 

 

( ̄▽ ̄)

 

 

オーバーレーシングです。

イメージ的には「YAMAHA」のイメージが強いですねー。

ホームページのヒストリーを読んでると、

もともとは「HONDA」の社員で、

「MORIWAKI」に修行に行ったらしいです。

みなさんいろいろ苦労して

現在があるようです。

 

1972年

「4ストバイクでレースをやりたかった」

という当時18歳の佐藤健正は、故郷熊本を離れて本田技研鈴鹿製作所に入社。
社内チームの鈴鹿レーシングではCB125をベースにして全日本を走らせていた。

その後、

「より高いレベルでバイク作りを学べる」

と考えた佐藤は、モリワキエンジニアリングの門をたたくことに。
およそ6年間、森脇護氏のバイク作りを間近で見ていく傍ら、

「いつの日か自分でも自らの考えが反映されたバイクを作って走らせてみたい」

という思いが次第に膨らんでいく。

そして、

1982年、オーヴァーレーシングプロジェクツを設立。
1984年にはTT-F1マシン、OVを冠にネーミングされたオーヴァーレーシンング初のオリジナルマシンOV-01が完成する。
アルミ角パイプを用いた記念すべき最初のオリジナルフレーム採用マシンだったが、
「今になって思えば、当時は何も分からずに、とりあえずオリジナルフレームを作ってみましたというレベル。
ライダーの藤本泰東選手からはいろいろと問題点の指摘も受けたんですが、最初のうちはそれがどこに起因しているのかもよく分からなかったですね。」

それでも試行錯誤を重ねるうちに完成度は飛躍的に向上。後に続くOV号の基礎となるべき知識とデータの蓄積が進んでいった。

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アルミ角バイプフレームに続いて、次にトライしたのが、アルミハニカムフレームだった。
「何か新しいものを」

と模索していた時、イギリスのヘロンスズキがWGP500で走らせていたRGT500のスペシャルフレームにヒントを得たもので、
まずはVF400エンジンを搭載したF3のOV-03を試作。続いてSRX600エンジン搭載のシングルレーサー、OV-05を完成させた。
最終的にはアルミハニカムフレームのF1マシン製作を目指していたが、フレームデザインの自由度の低さに加え、メンテナンス性にも難があったために断念する。

代わって、全日本F1に本格参戦するために作り上げたのが、コンベンショナルなアルミ角パイプフレームにFZ750エンジンを搭載した85年のOV-06だった。
その後F1マシンは改良版のOV-07を経て、88年のOV-08では新たなコンセプトに基づくオリジナルのアルミツインスパーフレームを開発。
翌89年のOV-09ではさらに完成度も高まったが、同じ年にヤマハからは、スーパーバイクのホモロゲモデルともいうべきOW01がデビューすることに。

「OW01フレームは、正直言ってOV-09フレームより良かったですね。
プライベータのオリジナルフレームよりも、メーカーのノーマルフレームの方が優れているという、OV-01の頃とは状況が完全に逆転してしまったんです。
ノーマルフレームに手を加えて、引き続き全日本を戦うという選択肢もあったんでしょうけど、それは本来自分が目指している方向性とは違うなと思いました。」

メーカーがレーシングユースを前提に本気で開発してきたマシンにはなかなか勝てなくなってきた時代。
オリジナリティのメリットを活かせる余地が少なくなってきた中、オーヴァーの全日本でのレース活動も次第に縮小化していくのだった。

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88年から89年にかけ、オーヴァーは全日本F1に参戦する一方で、これまでにない車体コンセプトに基づくニューマシンの開発をスタートさせていた。
それが楕円パイプで構成されたフレームをもつOV-10とOV-11だった。

「全日本でトップクラスを維持しようとすると、フレームだったらアルミ角パイプよりもツインスパー、
2本サスよりもモノショック、正立よりも倒立フォークといった具合に、どうしてもある程度カタチが決まってきてしまう。
独創的なモノ作りとかカッコ良さの追求とは次第に相容れないものになってきたんです。
そうは言ってもやはりオリジナルにはこだわりたい。そこで作ったのがOV-10とOV-11だったんです。」

パワーユニットもOV-11にはSRXのシングル、OV-10にはドゥカティのツインを搭載するなど、
従来のF1マシンとはまったく別な走行ステージが想定されていた。
そんなときに、縁あってヨーロッパのシングルレースへの招待が舞い込み、91年のオランダ・アッセンのレースにスポット参戦することに。

「全日本をやっていた時も、BOTTとかに行くと面白いマシンがいっぱいあって、ずいぶん興味をそそられましたけど、
感覚的には向こうはさらに10倍くらいの規模で、面白いマシンで溢れてましたね。
フレームにしてもエンジンのチューニングにしても、日本ではあまり見かけない発想や手法で、なるほどと関心してしまうようなものが多かったですね。」

翌92年になると、OV-11、改良を加えたOV-11やOV-11Aを持ち込み、イギリス選手権SOSシリーズにもチャレンジした。

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周りのバイク仲間も

OVER racingの集合を

付けている人多かったですねー。

シンプルだけど

排気音が気持ち良かった覚えがあります。

(*゚▽゚*)

 

1992年のイギリスSOS参戦以降、ヨーロッパへの遠征は一旦休止していたが、シングルレーサーの開発は継続して行われており、OV-11/11Aの後継マシンとしてOV-16が完成。当面の間は車両を現地のライダーに託して、日本からはメカニックだけを派遣した。

1996年になると、かねて話題に上がっていたヨーロッパ・スーパーモノ選手権シリーズの開催決定の知らせが届く。スーパーバイク世界選手権のヨーロッパラウンドに併催されるため、注目度は抜群。シングルの本場、ヨーロッパ全土からトップコンストラクターが集結し、シーズンを通して各サーキットを転職し、実質世界ナンバー1を決めようというビッグイベントである。オーヴァーの挑戦が再び始まることになった。この年、OV-16は箕田選手のライディングで幸先良く初戦を制し、最終的にはシリーズチャンピオンも獲得した。

「タイトルは獲ったんですが、勝ったのは最初の1回きり。自分としてはやりたいことが十分にできなかった。このままでは終われないという思いが強かったですね。シーズン後半にはエンジンはかなり早くなって手応えは感じてましたし、ニューマシンの構想もほぼ出来てましたから。」

そして翌1997年、さらなる進化熟成を遂げて投入されたOV-20は、圧倒的な強さを発揮してシリーズ連覇を達成する。連戦連勝で落としたレースは1戦のみ、ラップタイムでもトップスピードでも他の追随を許さない、文句なしのチャンピオン獲得だった。

「本当はインジェクション化とかまだやりたいことはあったんですけど、ひとつの目標は達成したので、この辺りが一応の区切りかなと思いました。レースでの速さを追求する一方で、自分なりの独創性もある程度出せたんじゃないかと思ってます。だからこの頃はレースにすごく力が入っていたし、充実しましたね。」

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OV-11や11Aでヨーロッパのシングルレースに参戦していた頃、
国内では2輪専門誌とのジョイントで、ヤマハのバラレルツインTDM850をレースを通してスポーツバイクに仕立てていこうという企画が遂行していた。

 

あの頃、

TDM850がかなり人気になってました。

まあ、

当時はマルチ全盛だった時代に、

このバイクがパラレルツインを

スポーツに結びつけた感があります。

後のSUZUKIのSVやらHONDAのFIRESTORMなんかは

このバイクが成功したから発売されたのではないでしょうか?

 

( ´∀`)

 


1992年には、この企画を発展させ、オリジナルの楕円パイプフレームにTDMエンジンを搭載したがOV-15が完成。
OV-15は国内のツインレースを何戦か走ったあとに、この年の鈴鹿8耐にもチャレンジした。

さらにこのOV-15をベースに

「日本製ツインの街乗りスーパースポーツを産み出そう」

という、壮大なプロジェクトがスタート。
あくまでもストリートバイクが大前提となっていたため、従来のOVレーサーとは全く異なるアプローチにて開発が進められることになる。
車体設計には専門のインダストリアルデザイナーを招聘し、フレームもカウルデザインもモックアップまで作って検討するという、
メーカーの市販車開発と同様の本格的な手法が探り入れられた。

「外装関係はもちろんですが、フレ―ムもレーサーちっくなものではなくて、街乗りを意識したカッコいいものになるよう、溶接痕にまでこだわりました。
なんといってもプロのデザイナーの関与は心強かったですね。」

そして完成したのがOV-15A。
1993年のパリショーにて、オリジナルのストリートバイクとして出展を果たす。
目の肥えたヨーロピアンライダー達の注目を多いに集めた。
その後OV-15Aは鈴鹿8耐にも参戦。97年には日本製ツインの街乗りスーパースポーツとして、国内での市販化を実現した。

 

国内でのネイキッドブームを背景に始まったスズカNK-1シリーズにおいて、オーヴァーXJR1200は95,96年とシリーズを2連覇。
翌97年の鈴鹿8耐では、YZF1000サンダーエースにてXフォーミュラでクラス優勝。
総合でも、750スーパーバイク勢を向こうに回して13位と優秀な結果を残した。

その後、各メーカーもこのクラスに力を入れてくるようになり、YZF-R1に代表される新型の1000ccスーパースポーツが続々と登場する。
やがてスーパーバイクのレギュレーションは750ccから1000ccとなり、全日本のトップカテゴリーは1000ccのスーパースポーツ一色となる。

「かつてTTF1にOW01が出てきた頃と同じで、もはやプライベーターが独創性を発揮できるような状況では無くなってしまいました。
オーヴァーレーシングの基本はモノ造りにあるわけですから、それでは面白く無いんです。」

そこで、ベース車両として選択したのが、VツインクルーザーのXV1700だった。
アルミ楕円バイブフレームと本格的な足周りですっかりロードレーサー然とした姿に生まれ変わったOV-23は、鈴鹿8耐に果敢にチャレンジしたのだった。

「一番サーキットに向かないバイクは何かと考えた時に、まずはXV1700とVMAXが候補に挙がったのですが、
V-MAXは4気筒で速くなって当たり前のように思ったんで、XV1700を選んだんです。
誰もやらないようなバイクを早く走らせる

ためには、いろいろと工夫しなければならないわけですが、
そこに従来にない発想や、他にないものが生まれ、最終的には市販品にフィードバックされることになるんです。
そういう考え方や姿勢はこれからも大切にしたいですね。」

 

ミニバイクブームの再来とともに新たなレースカテゴリーに参入。
モンキーやAPEエンジンを搭載したミニモトレーサーの開発と実戦投入を開始し、鈴鹿ミニモト4時間耐久レースに挑戦した。

2007年と2008年はヤマハ製TTR125エンジンを搭載したOV-27を開発し、自社チームとしてレースに参戦。
翌年、OV-27のバージョンアップフレームOV-28も投入など、ライバル達と激しさの増す開発競争へと突入した。
同時に、KSR110やモンキー124ccの横型エンジンを搭載したOV-29を投入。有力チームよりサポート参戦し、ミニモト界で勝てるフレームへと成長させていった。

その後、ますますライバル達のレベルも上がる中、さらなる進化が求められ、OVERならではのアイデアと技術力で開発したOV-35はAPE用エンジン向けに開発。
専用アルミニウムタンクやカーボン製ラムエアシステムの採用、HRC製RS125の前後足回りを使用することを前提としたダイメンションは生粋のレーサーへと進化を遂げ、それは、まさにヨーロッパスーパーモノチャンピオンマシンのOV-20を彷彿とさせるOVER開発チームによる渾身の一台が完成したのだった。

ミニモト用フレーム開発とレース活動において得られたノウハウと技術は、商品開発へのフィードバックも高く評価され、
フレームキットやアルミニウム鍛造12インチホイールシリーズは、現在でも全国各地のサーキットで活躍している。

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創業以来、斬新な発想とアイディアで数々のオリジナリティあふれるマシンを世に送り出してきたオーヴァーレーシングだが、そうしたモダンなバイクの対極にあるようなクラシックや絶版バイクにも地道に力を注いできた。

93年には歴史のあるインド製バイク、エンフィールドの輸入販売を開始。その後、東京でのアンテナショップの展開等を通して、エンフィールドを若者ライフスタイルに浸透させることに成功した。

「個人的にクラシックバイクは以前から好きでした。特に古いシングルとかツインはエンジンのカタチがいいですね。これを全開で走らせたらどうなんだろう?というのがあって、創業して間もない頃も、トライトンやトライデント、ドゥカティ350シングルなんかでクラシックレースを走ってたんです。その後、全日本やヨーロッパ遠征などで忙しくなって休んでしまいましたが、03年頃にマンクスを手に入れてまたクラシックをやり始めたんです。」

06年にはマンクス、エンフィールド、CB750Fourをアメリカ・デイトナに持ち込み、クラシックレースで走らせている。

近年では、根強い人気の国産絶版車をレストア・販売するMOTO JOY(モトジョイ)を新たに事業展開。
絶版車ファンはもとより、リターンライダーや新規ユーザーからも支持を得て、新たなフィールドの開拓が着々と進む。

当然、レース活動への意欲の高いオーヴァーレーシングは、絶版車をレーサーに仕上げ、2009年にはテイストオブツクバにゼファー1100用エンジンを搭載したOV-32を走らせる。
オリジナルフレームとレーサーへの意識の高さゆえに、レース専用フレームのみとしての販売になったことが惜しまれる。

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2012年より組織編制ともに、高橋篤史率いる新体制となったオーヴァーレーシングは、鈴鹿8時間耐久レースにへ5年ぶりに復帰。
マシンは、Aprilia製RSV-4ファクトリーを使用し、2年間連続の参戦を果たした。

5年ぶりの参戦は、若い社員達は過酷なタスクを課され、経験あるメカニック達にとっても険しいレースとなった。
しかし、新たなスタッフと新たなマシンで、全てを乗り越えるチカラを新生オーヴァーレーシングは潜在的に備えていた。
中でも、初の陣頭指揮を執った高橋にとって、20年後、30年後へつなげる大きなファーストステップだった。

「8耐への復帰には、少し勇気が必要でした。レースの世界は継続によるアドバンテージは大きく影響するからです。
5年間、耐久レースから離れ、これまで使用してきた国産車に変わってApriliaをベースとすることも新たな試みでした。
しかし、社員達は意欲的で前向きあったこと、そして、何より鈴鹿8時間耐久レースのチーム監督として参戦することが、私の幼い頃からの夢でもありました。
オーヴァーレーシングは夢を実現できる場所、そのことを社員全員で共有し、そしてOVERファンのみなさんに伝えていきたいです。」


これからも、オーヴァーレーシングプロジェクツは歴史を作り、チャレンジは続きます。