アプリリアと読みます。
あー。
ベビー用品の?
それは「アップリカ」
何の関係もありません。
( ̄∇ ̄)
以下Wikipediaより
第二次世界大戦直後自転車生産を開始し成功を収めた。
1968年に創業者であるバリエ・アルベルト・ベッジオから息子のイバノ・ベッジオが経営を引き継ぐ。
イバノはエンジニアの協力を得てモペッドを制作し、その後は1974年に本格的なモトクロッサーを制作。
モトクロス世界選手権シリーズに全日本モトクロスチャンピオンの鈴木都良夫選手を擁し参戦。
1977年にはレプリカモデルを発売し成功を収める。
1980年代初頭には既存のモペッド、モトクロッサーという車種、会社のイメージにこだわることなくエンデューロ、トライアル、オンロードモデルを意欲的に製作し販売する。
アプリリアのモトクロス?
あまり聞いたことありませんでした。
最近、新型のバイクが出たらしいです。
RX125
レース活動を積極的に行う姿勢は、ブランドの知名度を広げるだけではなくレースから得たデータを市販車に活かすという方針からであり、斬新で独特な車体構成により小排気量ロードレース(125ccクラス、250ccクラス)で圧倒的な速さを誇り、後のロードレース界に影響を与えた。
しかし設立当時のアプリリアの特徴であったオフロードバイクは1980年代から現在に至るまでのロードレースにおける数々の素晴らしい成績とともに影が薄くなる。
1990年代に入るとスクーターなどの実用的なバイクの生産にも参入し、モト・グッツィ、ラベルダなどを買収するが、その後の経営戦略の失敗、事業拡大、レース活動の資金の膨張により財政難に陥り2004年8月同業のピアッジオ傘下に入った。
基本的には車体とエンジンを一体で開発、販売する会社であるが、RS250ではスズキからRGV-Γ用のエンジン提供を受けていた。
RS250
アプリリア旋風の代表的なバイクです。
私は見たことありませんでしたが、
めちゃくちゃ速いというウワサでした。
250ccで70馬力?
750cc並でしたね。
元のエンジンはRGV-Γ、
SUZUKI発のモノは40馬力(国内規制)だったので
「あー?んじゃパワーアップすりゃガンマも70馬力?」
と思うひともいましたが実際には難しかったみたいです。
最後の2ストでしたからねー。
( ̄^ ̄)ゞ
また現在も継続使用されている1000ccのV2エンジンについては、ロータックスが開発(アプリリアとの共同開発との説もある)したものである。
1990年代に原田哲也や坂田和人がロードレース世界選手権に参戦するなどモータースポーツでの活躍もあり、日本ではイタリア車としてドゥカティ、ビモータと並び知名度の高いブランドである。
2005年4月13日にはBMWとの業務提携が締結された。
◯原田哲也とアプリリア
アプリリアは原田が世界GPにデビューした直後から彼の才能を高く評価し、
原田が新人で世界チャンピオンを獲得する
という偉業を達成すると、さらに獲得を強く望んだ。
そして原田とヤマハファクトリーとの契約が解消されると直ちに原田獲得に動いた。
原田もライバルのビアッジが乗るマシンに憧れと興味があった。
アプリリアは念願の原田獲得が実現すると、
3年連続世界チャンピオンを獲得したビアッジを放出する
という驚くべき行動に出て、ゼッケン1よりも原田というライダーを選択したことを内外に知らしめた。
この時代、日本人スポーツ選手が海外チームと契約する場合は金や日本市場進出といった実力以外の要素が絡むケースが非常に多かったが、原田とアプリリアの契約はそうした要件が一切絡まず、
純粋に選手の実力のみを評価して結ばれた点が特筆される。
この契約により、原田は日本人ライダーとして海外のファクトリーチームと契約する初のライダーとなった。
なにしろ
原田哲也は速かった!!
アプリリアに移籍したときは
「日本人なのになんで?」
って思ってましたが、
でも250ccでは強かったですが、
500ccやらmotoGPでは
「あの大きさやパワーに自分の体がついていけない」と言って、
あまり振るいませんでした。
まあ、よくわかってらっしゃる。
( ̄∇ ̄)
◯坂田和人とアプリリア
1994年 - WGP・GP125年間王者
1995年 - WGP・GP125ランキング2位
1996年 - WGP・GP125ランキング8位
1997年 - WGP・GP125ランキング4位
1998年 - WGP・GP125年間王者
1991年より、若井伸之・上田昇と共にWGP・125ccクラスにフル参戦、プライベート日本人ライダーの先駆者となった。
以後1999年まで一貫して125ccクラスに参戦を続け、1994年と1998年にシリーズチャンピオンを獲得。このほか1993年・1995年はシリーズ2位に入るなど、125ccクラスを代表するライダーとして活躍した。
特に1995年は青木治親が同クラスのシリーズチャンピオンを獲得しており、日本人がシリーズランキングの1・2位を占めるという快挙も達成している。
その戦歴に報われない苦労人。1994年世界チャンピオンになりながら、オフの過ごし方を聞かれた雑誌のインタビューに「ユンボのバイトします」と答えている。アプリリアからのサポートも悪く、劣化した部品を組み込んで予選に臨み、結果壊れてしまったために他のチームに融通をお願いに行くなど、おおよそ勝利を望めない環境で得た1998年のチャンピオンは非凡な才能によるものだった。
日本人は小さいから小型排気量が向くのかな?
そう思わせるほど強かった!
現在のmoto3でも、
多数の日本人が頑張ってます。
故・若井伸之さんは180cmあったので、
500ccでも行けるんじゃ?
って思ってましたが亡くなりました。
この方は次回、お話ししたいと思います。
今のmoto3で頑張っている日本人ライダーも
motoGPまで行ってくれると嬉しいですねー。
Max Biaggi 2010スーパーバイク
RSV4 1100 FACTORY
A・エスパルガロとA・イアンノーネ
日本GP終了時点で
14位と17位。
アプリリア旋風が吹き荒れた
あの時代からすると、、、?
海外メーカーでは
ドゥカティに押されてますが
頑張ってほしいです!
(^_^)☆